軍事に対する警察権と民間に対する警察権を併せ持っていた日本の憲兵は、1923年、関東大震災の際、消防、救護、警備、流言飛語の調査および取締り、犯罪者の検挙など、多方面にわたる警察業務を行った。戒厳が布告された非常事態とはいえ、このような行動が可能であった理由として、まず警視庁の警察は、災害による混乱と「貧弱」な武装のため首都周辺の治安を維持するには力不足であったこと、そして、治安維持を補助するために派遣された大規模兵力の軍隊は警察権を持っていなかったことが挙げられる。したがって警察と軍隊の中間に位置する憲兵の役割が重要性を増していった。しかし、憲兵の組織と兵力は警察や軍隊に比べ非常に少ない規模であったため、災害地に臨時憲兵隊を新設し、また他兵科から補助憲兵を招集するなどの方法で大幅に補充しようとした。このような憲兵の兵力不足問題により、「朝鮮人暴動」などの流言飛語を口実に自警団、警察、軍隊による在日朝鮮人虐殺が行われる中、憲兵の活動は現場でこれらを警戒․取締るより事後の捜査および後処理に集中する結果になった。警察や軍隊のように憲兵の朝鮮人虐殺行為が公文書によって立証されることはなかったが、自警団の虐殺を「幇助」する、社会主義勢力に対する弾圧の一環として収容所の朝鮮人を「間引く」など、憲兵も間接的に虐殺に関与していたことが分かった。