はじめに──「記憶」が導く教育への問い[山名 淳]第一章 記憶・想起と人間形成[ローター・ヴィガー/山名 淳 訳] はじめに 一 ヨーロッパの哲学における記憶と想起 二 文化科学における記憶と想起の形式 三 想起と人間形成の対象としてのホロコースト第二章 教育における「記憶」の意味転換──実験心理学的記憶研究の教育論への導入をめぐって[今井康雄] 一 消え去らない「記憶」 二 一九世紀ドイツにおける記憶と教育 三 実験心理学と記憶研究──ダンジガーの心理学史研究から 四 記憶をめぐる教育論──エルンスト・モイマンの場合 五 現代的な教育論の構図へ第三章 「当事者」について記憶の観点から考える──当事者研究と現象学的質的研究を手がかりに[大塚 類] 一 問題の所在──「当事者」とは誰か 二 当事者研究における当事者と記憶 三 現象学的質的研究における意味と当事者性 四 現象学的質的研究における記憶と当事者性の拡大 五 「当事者」とは誰か第四章 ハンブルクの「ゲニウス・ロキ」を想起する──アビ・ヴァールブルク「文化科学図書館」をめぐるビルドゥング・トポグラフィ[眞壁宏幹] はじめに 一 ハイルヴィヒ通り一一六番地(Heilwigstrasse 116) 二 ドーム広場(Domplatz) 三 エドムント・ジーマース・アレー 一番地(Edmund-Siemers-Allee 1) 四 スイス・クロイツリンゲン(Kreuzlingen) 五 ボルン広場(Bornplatz) おわりに第五章 社会的記憶と個人的記憶の汽水域としての自伝──ルソーにおける抗いのエクリチュール[室井麗子] 一 ルソーによる「社会」への反抗と自伝 二 ルソーが反抗した「社会」とは何か 三 「集合的・社会的記憶」への反抗──ルソーの自伝的著作と抗いのエクリチュール 四 抗いのエクリチュール──諦念と希望第六章 誰が記憶を語りうるのか──文学研究の観点から記憶叙述の「当事者性」を検証する[三村尚央] 一 「記憶のフィクション」がはらむ困難 二 非当事者による「リアルな表現」とは──北条裕子「美しい顔」 三 原爆の経験を再構築する──アラキ・ヤスサダとカズオ・イシグロ 四 ホロコーストの記憶を継承するとは 五 証言することの困難と「ハイブリッドな証言」、そして叙述の技法としての「聞き書き」 六 記憶を叙述する困難を乗り越えるために──「喪とメランコリー」再考第七章 記憶の継承をめぐる共同性と公共性の関係──H・アレントにおける「語り口」の問題をてがかりに[田中智輝] はじめに 一 「語り口」をめぐるアレントとショーレムの論争 二 記憶と責任の継承における共同性と公共性の問題 三 アレントにおける「語り口」の問題 四 公共性の源泉としての私性──むすびにかえて第八章 「身ぶりとしての抵抗」の習慣形成──鶴見俊輔の戦争体験と反射の自己教育[西本健吾] 一 抵抗の習慣──問題の所在と本章の目的 二 鶴見の戦争体験 三 「反射」の自己教育 四 反射の自己教育における記憶の役割 五 「身ぶりとしての抵抗」としての反射──まとめにかえて第九章 記憶の継承とはどのような行為か──ジークフリート・クラカウアーにおける批判的リアリズムを参照して[李 舜志] はじめに──「なぜ記憶を継承しなければならないのか」という問い 一 クラカウアーにおける映画の特性 二 映画論としての歴史論 三 批判的リアリズム 四 記憶の継承におけるリアルさの問題 五 記憶の継承におけるさまざまなリアル 六 偶有的な細部に余地を残す おわりに──進歩史観からの実践の救済、それによる体験者の消失への抗い第一〇章 〈記憶の教育学〉モデルを構想する──比喩としての記憶と教育に関する試論[山名 淳] はじめに──文化的記憶という比喩をめぐって 一 記憶としての文化、文化としての記憶 二 個人的記憶から集合的記憶へ 三 集合的記憶論に内包されたビルドゥング論 四 〈記憶の教育学〉モデル──集合的記憶論における教育の論じ方 おわりに──記憶に関する比喩の行方おわりに[山名 淳]初出一覧事項索引人名索引