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論文の大意本論文は、栗谷李珥の理気‐性心‐誠敬というTrilogy思想についての研究である。この研究は、「栗谷のTrilogy(トリロジー)思想は、二分法的二元の体系や還元論的一元の体系ではない、相互疎通が可能な『之妙』的思惟に基づいた通全的な(holistic)有機体的体系を備えている」という仮説を立てて、「序文・本論(全三部・六章・十八節)・結論」の構成をとり、そのTrilogy思想を存在論的次元と宇宙論的次元から分析し、その思想が持つ現代的意味を再構成することを目的とする。序文序文では、栗谷の生涯についての小伝、先行研究の検討、論文の構成および論文に用いた参考文献についての説明等を扱っている。とりわけ、栗谷のTrilogy思想についての三つの先行研究(高橋亨の研究、北朝鮮の朝鮮哲学史研究、黄義東の研究)を検討する際には、西洋哲学においての「二分法的二元論」を「栗谷李珥思想研究」の主な基盤とする研究傾向を批判的に考察する。高橋亨は、「理」と「気」を「二元」的排他的実体であるプラトンの『フアイドーン』においての霊魂と肉体として把握し、「主理派」と「主気派」という二分法的フレームワークを通して朝鮮の儒学史を研究した。その上で、高橋は栗谷の儒学思想を朱子学の「理気二元論」に基づいた「主気派」と規定する。北朝鮮における研究の場合は、「理」と「気」をマルクスレーニン哲学の観念と物質という「二元」の排他的実体として理解し、「唯物論」と「観念論」という二分法的構造を通して朝鮮哲学史を研究した。その研究の過程で、北朝鮮は栗谷思想を朱子学の「理気二元論」に基づいた「客観的観念論」と規定する。しかし、栗谷の「理氣之妙」的な思惟は「理気二元」の排他的実体概念に基づいた「主理」と「主気」または「観念」と「唯物」という外在的(機械的)関係を暗示する二分法的構造によって規定することはできない。栗谷において、理と気は存在論的次元はもちろん宇宙論的次元でも排他的実体ではない。むしろ、理と気は宇宙万物の存在の根源として存在論的次元から分離されたことがなく、宇宙論的次元からもその変化(生成と消滅)の根底として分離され得ないからである。また、理と気は二分の機械的関係というよりは通全的な有機体関係であるので相互対立的であるが、その力動的な固有の属性を失うことはない。このように理気を究極的実在(宇宙万物の存在根拠とその変化の根底)として把握し、その通全的な有機体関係を思惟した論理の体系が栗谷の「理氣之妙」である。黄義東は「理氣之妙」を栗谷哲学の基本原理と見て栗谷学の研究を行った。ところが、黄義東の研究でも「理」と「気」を「分割できない独立した単位」という排他的「二元」の実体概念として捉えている。また、彼は「理」と「気」をそれぞれ「精神的な価値」と「物質的な価値」という二分法の価値論で理解した上で、その価値の調和のモデルとして栗谷の「理氣之妙」を提示する。これは、理と気を霊魂と肉体または観念と物質という二元の排他的実体として捉えた後に理性と感性または精神と物質の二分法的活動によって説明する高橋亨や北朝鮮の栗谷研究と変わるところがない。言い換えると、黄義東は理と気の説明において範疇的な誤謬を犯している。栗谷は理と気をその属性と機能によって「無爲・無形」と「有爲・有形」の説明範疇に分け、これを性心と誠敬思想に一貫して適用させているからだ。結局、栗谷思想に関する先行研究を検討したところ、高橋亨や北朝鮮の研究はもちろん黄義東の研究の根底にも「二分法的二元論」の研究風土が見出される。このような「二分法的二元論」に基づいた研究の風土は、栗谷の「之妙」的思惟で表現される存在構造とその構成要素の通全的な有機体関係についての深層分析の欠如に因るものである。また、この研究風土は、植民地的社会-政治状況や資本主義と社会主義の冷戦時代にあたって西洋哲学、特に近代の西洋哲学の「二分法的二元論」の思惟を栗谷思想に図式的に適用および移植する知的状況のなかで造成されたものである。したがって本論文は、研究の方法においては黄義東の研究を批判的に継承しながら、栗谷のTrilogy思想を存在論的次元と宇宙論的次元の観点から深層的に分析すると同時に、これに基づいた栗谷のTrilogy思想がもつ現代的意味を追究する再解釈の総合過程を研究方向として設定する。第一部 李栗谷の理気思想研究本論の第一部は、栗谷のTrilogy思想における理気思想を全二章・六節に分けて研究する。第一章では、まず理気の存在論的次元と宇宙論的次元を貫通する二つの原理、「理氣元不相離:理と気は元より相離れない」と「理氣實不相雜:理と気は実は相雑じらない」を分析し、それぞれの原理を、二つでありながら一つであり(二而一)、一つでありながら二つである(一而二)という逆説の論理によって明らかにする。逆説の論理こそが、理気の「二分法的二元論」はもちろん、理を気と同一視する花潭や気の属性を理に還元させる退溪の一元論的思惟とは異なる、栗谷の「理氣之妙」的な思惟を収めることができるからである。それから、理気の二つの構成原理の収斂と発散を含蓄している「理氣之妙:理気の妙」、その発動的側面と形象的側面である「氣發而理乘:気は発し理は乗る」と「理通而氣局:理は通じ気は局す」という三つの理論を、「無爲・無形」の理と「有爲・有形」の気との対立的属性や機能にしたがって深層的に分析する。三つの理論の分析で注目すべき点は、「氣發而理乘」と「理通而氣局」の理論は理気の対立的属性と機能(還元的一元論の止揚)についての表現であるけれど、理気は元より分離されない(二分法的二元論の止揚)ということを前提にしている点である。そうでなければ、対立的属性と機能によって理気はそれぞれ別個の空間を占めている状態で時間的先後にしたがって合するという「離合」の二元の論理で収斂されるため、「理氣之妙」の本義である「本合」または「妙合」の逆説の論理に反する。ゆえに、これらの理論で「而」は時空間的先後による「離合」を暗示する接続詞ではなく、「理氣之妙」の逆説論理を表す「本合」の意外性を内包する接続詞として解釈すべきである。この解釈は、「本然之理」に相応する「本然之氣」の動静とその根本を論ずる「氣發而理乘」と「理一分殊」と「氣一分數」を創造的に総合した「理通而氣局」論の分析によって解明される。第二章では、前章で行った理気の存在論的次元と宇宙論的次元の分析を総合する。まず、栗谷の論述にしたがって、理気の存在論的次元は宇宙万物の存在根拠としての太極-元気または太虚-混沌の気であると叙述する。これを「理氣之妙」の構造的側面の「理在氣中:理は気に実在する」の「宇宙的存在」に解釈し、「宇宙的存在」の自己展開の過程から生成する宇宙万物を「存在的宇宙」と論述する。いわば、存在論的次元では「宇宙的存在」と「存在的宇宙」の本然の同一性を究明することができ、宇宙論的次元では気の可変的属性によって悪に直面した「存在的宇宙」の実存状況の説明が可能である。このような「宇宙的存在」と「存在的宇宙」の連続性と不連続性の論述過程を通して、理気の二分法的二元論と還元的一元論を止揚する栗谷の「理氣之妙」の通全的な思惟が論証される。さらには、第一章で分析された存在論的次元と宇宙論的次元の理気の三つの理論を総合することで、栗谷の理気思想は「宇宙的存在論」と「存在的宇宙論」に理論化される。このような脈絡から、本論文の第一部では栗谷の理気思想を宇宙万物の存在根拠と存在構造を明らかにする性心-誠敬思想の基礎理論と規定し、栗谷のTrilogy思想における巨視思想(macro-idea)と命名する。第二部 李栗谷の性心思想研究本論の第二部は、栗谷のTrilogy思想における性心思想を全二章・六節にかけて研究する。第一章では、理気思想の原理と理論に立脚した、性心思想の二つの原理(「『性心元不相離:性と心は元より相離れない』『性心實不相雜:性と心は実は相雑じらない』」)と、その三つの理論(「『性心之妙:性心の妙』『心發而性乘:心は発し性は乗る』『性通而心局:性は通じ心は局す』)を、存在論的次元と宇宙論的次元から性-心の対立的属性(性の「無形・無爲」と心の「有形・有爲」)に従って深層的に分析する。まず、「性心之妙」の分析では性心の実存構造である「性在心中:性は心に実在する」を取り扱うが、性心思想の「心發而性乘」と「性通而心局」の理論で「而」は時空間的先後ではなく、「理氣之妙」に基づいた「性心之妙」の論理に従うという点に注目する。特に、「心發而性乘」と「性通而心局」の理論を分析する際には、性心思想の核心内容である「人心道心(情と意)」、「本然之性」と「氣質之性」および「至善」と「中」の関係などについての栗谷と当時の朝鮮儒学者たち(退溪、高峰、尤庵、巍巖、南塘)の理解を考察するとともに、理気の思想的体系に基づいた朝鮮性理学の多様な面貌を明かす。第二章では、第一章の性心についての深層分析を宇宙万物に拡大させ総合的に述べると同時に、栗谷の性心思想が持つ現代的な意味を探る。まず宇宙万物の生成と消滅の過程を栗谷の論述に従って「生生之理」と「生生之氣」で解明する時、天地はその理と気を与えられた最初の具体的な事物でありながら万物の父母として、万物の生成における基本的な生態環境であることを明らかにする。また、宇宙万物の生成過程に現れた「人物性同異」を、宇宙万物の本有的な同一性とその実存の多様な様態として再解釈する。特に、「修爲」の能力を持つ人間が宇宙で占める実存的地位や役割を論ずる際に、社会-政治的な憂患の意識に基づいた責任意識を通して天地とともに永久に生きられる人間の「死生の道」を論ずる。それから、理気思想との関連のなかで「存在的宇宙」である宇宙万物を「宇宙的存在」の社会-宇宙的事態と解釈し、宇宙万物の霊(心の魂魄)に実在する理、すなわち性を「社会-宇宙的霊性」として論述した上で、性心思想の三つの理論を総合し「社会‐宇宙的霊性」の三つの思想意識(「我々意識」「本有価値論」「創作過程」)を提案する。このような意味で、栗谷の性心思想は、宇宙万物が理気‐誠敬の在りかとその流行の実在であることを詳らかにする、Trilogy思想における精緻理論である。本論の第二部では、その性心思想をミクロ思想(micro-idea)と命名する。第三部 李栗谷の誠敬思想研究本論の第三部は、栗谷のTrilogy思想における誠敬思想を全二章・六節にかけて研究する。第一章では、まず理気-性心思想の二つの原理を誠敬思想に対応させ、栗谷の言述に従って誠敬の二つの原理(「『誠敬元不相離』『誠敬實不相雜』」)を導出する。それから、誠敬の二つの原理が貫通する三つの理論(「『誠敬之妙:誠敬の妙』『敬發而誠乘:敬は発し誠は乗る」』『誠通而敬局:誠は通じ敬は局す』」)をその対立的属性と機能によって存在論的次元と宇宙論的次元から分析するとともに、「理‐性‐誠」と「気‐心‐敬」という二つの思想範疇を再構成して説明する。このような説明過程において、誠敬思想を『聖學輯要』に基づいてプラクシス思想(praxis-idea)と論述するが、プラクシス思想の固有の特性と符合するように誠‐敬の意味を「修己治人」の目的-方法と再解釈して、理気‐性心の総体的実状であると述べる。ただ、誠と敬をその説明範疇の特性によって目的と方法に区別したが、その範疇は理気-性心の存在構造に基づいた「誠在敬中:誠は敬に実在する」の通全的な有機体関係を前提にするため、方法に目的が内在するという点に注目しなくてはならない。このような点から、先行研究の二分法的な構図にしたがって「主誠」と「主敬」に分け栗谷の誠敬思想を「主誠」的修養論と定義づける研究の風土は、理気-性心思想と同様に「之妙」的な関係論によって再検討する必要がある。第二章では、「志の美学」「知行の弁証法的会通」「安民の士林政治」「實理‐實心の實學」を中心テーマとして、栗谷の誠敬学が単なる静的な修養論ではなく、社会-宇宙的次元への実践を含む「實理‐實心の實學」であることを論じる。「志の美学」では、社会-宇宙的次元への反省的実践の契機として「志」を論述し、「知行の弁証法的会通」においては、その反省的実践の哲学的根拠として栗谷の「知行一時竝進」を「由知而達於行之效:「知」に由って「行」の実効に達する修己治人の方法」と「由行而達於知之效:「行」に由って「知」の実効に達する修己治人の方法」という二つの側面から論議する。そして「安民の士林政治」を論ずる際には、「修己治人の誠敬学」に立脚した栗谷の士林政治を通して朝鮮中期の「實理‐實心の實學」という革新運動の実例を探り、「實理‐實心の實學」においては、理気の「宇宙的存在論と存在的宇宙論」や性心の「社会-宇宙的霊性」を総合して、「實理‐實心の實學」の三つの実践綱領(「持続可能性(sustainability)」「必要に基づいた政治経済(need based political economy)」「知識人の連帯(solidarity)と社会参与(social participation)」を提案する。このゆえに、本論文の第三部では、栗谷の誠敬思想を「實理‐實心の實學」と規定し、彼のTrilogy思想におけるプラクシス思想(praxis-idea)と命名する。結論結論では、本論の分析および総合という研究過程を要約・再検討し、本論文の研究仮説の妥当性を論じ、本研究が持つ意義や限界を述べる。また、栗谷の儒学思想と、近代の西洋哲学の二分法的二元論に対する批判的省察を通して有機体哲学を求める A.N.ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)の思想との比較研究(概念中心ではない思想構造とその体系の比較研究)の可能性を展望する。とりわけ、研究過程を再検討する際には、理気思想は性心-誠敬の存在根拠を究明したものであり、性心思想は理気-誠敬の宇宙的実存を説明したものであり、誠敬思想は理気-性心の総体的実状を明かしたものであることを明白にする。すなわち、「栗谷のTrilogy(トリロジー)思想は、二分法的二元の体系や還元論的一元の体系ではない、相互疎通が可能な『之妙』的思惟に基づいた通全的な(holistic)有機体的体系を備えている」という研究仮説の妥当性を明らかにする。本研究は大きく二つの意義を持っている。一つは存在論的次元と宇宙論的次元という深層分析の方法によって栗谷のTrilogy思想を体系的に理解した点である。栗谷は本然の理気‐性心‐誠敬の次元とその本然の流行または分殊(数)の次元を論理的な一貫性と体系的な整合性をもって考察し自分のTrilogy思想を展開するので、本研究で用いた存在論的次元と宇宙論的次元の分析方法は栗谷の思想を体系的に理解するために適合したものであった。何より両次元の分析方法は、栗谷の理気‐性心‐誠敬思想を通全的な有機体体系として把握するために適合した方法であるだけではなく、二分法的二元論に基づいた「主理」や「主気」あるいは「観念」と「唯物」の図式による朝鮮儒学思想の単純化を越え、当時の鮮儒学者たちの多様な思想体系の考察に有用な研究手段であった。もう一つの意義は、本論文の持つ独創的な側面にある。本研究は理気‐性心思想に比べて研究が不十分な栗谷の誠敬思想をTrilogy思想として位置付けることで、そのTrilogy思想の基礎となる「之妙」の通全的思惟を社会-生態的観点を通して再解釈し、その意味を追究した。第一部での「宇宙的存在論」と「存在的宇宙論」は、存在論と宇宙論の二分法的二元論を止揚して栗谷の「理氣之妙」の通全的な思惟を明かした。また、第二部での「社会‐宇宙的霊性」とその三つの意識は、栗谷の性心および心身の有機体的関係論に基づいた再解釈であり、第三部での「實理‐實心の實學」とこれによる三つの実践綱領は、近代志向的な実用主義とは違う栗谷の「知行並進」の誠敬思想の真髄を明かしたものと言える。このような本研究が持つ意義は、違う角度から見ると限界になり得る。いわゆる存在論的次元と宇宙論的次元という分析方法は、西洋哲学の用語であり、社会‐生態的観点に基づいた再解釈と意味追究は、筆者の解釈学的な想像力を通した現時代に対する批判的省察だからである。しかし、本論文は、先行研究を検討した際に述べたように、排他的な実体概念に基づいた「二分法的二元論」のような西洋哲学の概念が朝鮮儒学思想の研究でも一般化してしまった知的風土に対する問題意識から出発している。こうした自覚から、むしろ西洋の存在論的次元と宇宙論的次元の分析方法を通して既存の研究を批判的に省察し、栗谷の通全的思惟を体系的に理解しようとしたのである。なお、古典を読んで再解釈しその意味を追究する過程にはテキストを読む者の解釈学的想像力が介入することを免れず、意味の多様性が生ずる。このような方式で古典は現代に生きており、思想は前進する。ところが、読者の解釈学的想像力は、古典が書かれた社会-文化的な状況だけでなく、読者の置かれた時代状況から逃れられない。先行研究の高橋亨の朝鮮儒学史研究には、韓国に対する日本の植民地政策が投影されており、北朝鮮の朝鮮哲学史研究は、北朝鮮の社会主義建設の時期を反映している。黄義東の研究は、冷戦時代の韓国が経験した価値の対立の影響を受けている。さらに、栗谷もまた朝鮮中期の時代状況(中衰期)を反映して、約500年間の社会-文化的な距離を持つ程朱学のテキストを読んで解釈した。本論文も、人間中心的思考や生態環境中心的思考を批判的に省察した上で、人間社会と生態環境の関係を排他的に分離させることはできないという社会‐生態的意識を投影させ、栗谷のTrilogy思想を解釈した。何より、本研究の解釈的想像力は、栗谷のテキストと無関係な根拠のない想像力でもなければ、現代的意味の追究のために栗谷のテキストを都合よく配列する手段でもない。むしろ本研究における解釈的想像力による現代的意味の追究は、まず栗谷のテキストに現れる栗谷のTrilogy思想を存在論的次元と宇宙論的次元の観点から深層的に分析すると同時に、約500年間の社会-文化的な距離がある栗谷のテキストから学んで現時代を改めようとした試みである。

논문의 대의 본 논문은 율곡 이이의 리기-성심-성경(理氣‐性心‐誠敬)사상, 곧 그의 Trilogy 사상에 관한 연구이다. 이는「율곡의 Trilogy 사상은 이분법적 이원론의 체계나 환원론적 일원론의 체계가 아닌, 상호 소통 가능한 지묘(之妙)적 사유에 기초한 통전적인 유기체 사상을 갖추고 있다」라는 연구가설을 세워, 그의 Trilogy 사상을 체계적으로 이해하기 위해 존재론적 차원과 우주론적 차원에서 심층 분석하고, 그 사상이 갖는 현대적 의미를 재구성하는 것을 목적으로 한다.서문 본 논문은 서문, 본론(전3부 6장 18절), 결론으로 구성되어 있다. 서문에서는 율곡의 생애에 대한 간략한 전기, 선행연구의 검토, 논문의 구성 및 참고자료에 대한 설명과 범위를 논한다. 특히 선행연구의 검토에서는, 율곡의 Trilogy 사상에 대한 세 연구(타카하시토오루(高橋亨)의 조선 유학사 연구, 북한의 조선 철학사 연구, 황의동의 연구)를 분석하여, 실체 개념에 입각한 서양철학의「이분법적 이원론」에 기초하고 있는 그들의 연구 경향을 비판적으로 고찰한다. 타카하시토오루는「리(理)」와「기(氣)」를 플라톤의 『파이돈』에서 나타나는 영혼(靈魂)과 육체(肉体)이라는 「이원二元」의 배타적인 형상적 실체로 파악하고,「주리파(主理派)」와 「주기파(主氣派)」라고 하는 이분법적 구조를 통해 조선 유학사를 연구한다. 그러한 연구 과정에서 그는 율곡 사상을 주자학의「리기이원론」에 기초를 둔 「주기파」로 규정한다. 북한의 경우에는,「리(理)」와「기(氣)」를 마르크스-레닌철학의 관념(觀念)과 물질(物質)이라는「이원二元」의 배타적실체로 이해하고,「유물론(唯物論)」과「관념론(觀念論)」이라고 하는 이분법적 구조를 통해 조선 철학사를 연구한다. 그 연구 과정에서, 북한은 율곡 사상을 주자학의 「리기이원론」에 입각한「객관적 관념론」으로 규정한다. 그러나, 율곡의 「리기지묘」적 사유는 리기 이원의 배타적 실체개념에 입각한 「주리」와「주기」또는 「관념」과「유물」이라는 이분법적인 관계로 이해할 수 없다. 율곡에게 있어서, 리와 기는 존재론적 차원은 물론 우주론적 차원에서도 배타적 실체가 아니다. 오히려 우주만물의 존재근원으로서 존재론적 차원에서 분리된 된 적이 없으며, 우주론적 차원에서도 그 변화(생성과 소멸)의 근저로서 분리될 수 없기 때문이다. 또한 리와 기는 이분의 기계적 관계라기 보다는 통전적인 유기체 관계이기 때문에 상호 대립적이지만 그 역동적인 고유한 속성을 잃지 않는다. 이와 같이 리기를 궁극적 실재(우주만물의 존재근거와 그 변화의 근저)로 파악하고 그 통전적 유기체 관계를 사유한 논리 체계가 율곡의「리기지묘(理氣之妙)」이다. 황의동은 「리기지묘(理氣之妙)」를 율곡 철학의 기본원리로 삼고 율곡학을 연구한다. 그런데, 황의동의 연구에서도「리(理)」와「기(氣)」를 「분할할 수 없는 독립된 단위」라고 하는 배타적「이원二元」의 실체개념으로 파악한다. 또한 그는 「리(理)」와「기(氣)」를 각각「정신적 가치」와「물질적 가치」라는 이분법적 가치론으로 이해한 후에, 그 가치들의 조화의 모델로서 율곡의 「리기지묘」를 제시한다. 이러한 점에서, 리와 기를 영혼과 육체 또는 관념과 물질이라는 이원의 배타적 실체로 파악한 후에, 이성과 감성 또는 정신과 물질의 이분법적 활동으로 설명하는 타카하시토오루와 북한의 율곡 연구와 마찬가지로, 황의동의 연구도 동일선 상에 있다. 다시 말하면 황의동은 리와 기를 설명하는데 있어서, 범주적 오류를 범했다고 할 수 있다. 율곡은 리와 기를 그 속성과 기능에 따라「무위무형(無爲無形)」와 「유위유형(有爲有形)」의 설명범주로 나누어, 이를 성심과 성경 사상에 일관되게 적용하고 있기 때문이다. 결국, 율곡 사상에 관한 선행연구를 검토한 결과, 타카하시토오루와 북한의 연구는 물론,「리기지묘」를 율곡철학의 기본원리로 삼고 있는 황의동 연구의 근저에도 「이분법적 이원론」의 연구 풍토를 발견할 수 있다. 이와 같은「이분법적 이원론」에 입각한 연구 풍토는 율곡의 「지묘」적 사유에서 표현되는 통전적 존재구조와 그 구성요소의 역동적 유기체 관계에 대한 심층 분석의 결여에 기인한 것이다. 또한, 이러한 연구 풍토는 서양철학의 「이분법적 이원론」의 사유를 율곡 사상에 적용시켜 식민지적 사회-정치 상황이나 자본주의와 사회주의의 냉전시대에 도식적으로 이식하는 지적 상황에서 조성된 것이다. 그래서 본 논문은, 방법론에 있어서 황의동의 연구를 비판적으로 계승하면서 율곡의 Trilogy 사상에 대한 존재론적 차원과 우주론적 차원에 걸친 심층 분석하고, 이에 기초하여 그의 Trilogy 사상이 갖는 현대적 의미를 추구하는 재해석의 종합과정을 연구방향으로 설정한다. 제1부 이율곡의 리기사상연구 본론의 제1부는 율곡의 Trilogy 사상에 있어서의 리기사상을 2장 6절로 나누어 연구한다. 제1장에서는, 먼저 리기의 존재론적 차원과 우주론적 차원을 관통하는 두 원리,「리기원불상리(理氣元不相離):리기는 본래부터 서로 떠나지 않는다」와「리기실불상잡(理氣實不相雜):리기는 실제로 서로 뒤섞이지 않는다」를 분석하여, 각각의 원리를 둘이면서 하나(二而一)이고 하나이면서 둘(一而二)이라는 역설의 논리로 밝힌다. 역설의 논리야 말로, 리기 「이분법적 이원론」은 물론, 화담의 기일원론이나 퇴계의 리일원론적 사유와는 달리, 율곡의 「리기지묘(理氣之妙)」적 사유를 담아 낼 수 있기 때문이다. 그리고 리기의 두 구성원리의 수렴과 발산을 함축하고 있는 세 이론(「리기지묘」, 그 작용적 측면인「기발이리승(氣發而理乘):기는 발하고 리는 탄다」, 그 형상적 측면인「리통이기국(理通而氣局):리는 통하고 기는 국한한다」)을「무위무형(無爲無形)」의 리와 「유위유형(有爲有形)」의 기의 대립적 속성과 기능에 따라 심층 분석한다. 세 이론의 분석에서 주목할 점은 「기발이리승」과「리통이기국」이론은 리기의 대립적 속성과 기능(환원적 일원론의 지양)에 대한 표현이지만, 리기는 본래부터 분리되지 않는다(이분법적 이원론의 지양)는 것을 전제한다는 데 있다. 그렇지 않으면 대립적 속성과 기능에 의해 리기는 각각 별개의 시공간을 차지하고 있는 상태에서 시공간적 선후에 따라 합한다는「리합(離合)」의 이원의 논리로 수렴되어, 「리기지묘」의 본의인 「본합(本合)」또는 「묘합(妙合)」의 역설의 논리에 위배된다. 그러므로 그 이론들에서「이(而)」는 시공간적 선후에 의한 「리합(離合)」을 암시하는 접속사가 아니라, 「리기지묘」의 역설 논리를 표현하는 「본합(本合)」의 의외성을 내포하는 접속사로 해석해야 한다. 이 해석은「본연지리(本然之理)」에 상응하는「본연지기(本然之氣)」의 동정(動靜)과 그 근본을 논하는「기발이리승」론의 분석과「리일분수(理一分殊)」와 「기일분수(氣一分數)」의 창조적 종합인「리통이기국」론의 분석에서 해명된다. 제2장에서는 제1장에서 행한 리기의 존재론적 차원과 우주론적 차원의 분석을 종합한다. 먼저 율곡의 논술에 따라, 리기의 존재론적 차원을 우주만물의 존재근거로서 「태극-원기」 또는 「태허-혼돈의 기」로 서술하고, 이를 「리기지묘」의 구조적 측면인 「리재기중(理在氣中):리는 기에 실재하다」의「우주적 존재(宇宙的存在)」로 해석한다. 그리고「우주적 존재」의 자기 전개과정에서 생성하는 우주만물을 「존재적 우주(存在的宇宙)」로 논술한다. 말하자면, 존재론적 차원에서는「우주적 존재」와「존재적 우주」의 본연의 동일성을 규명할 수 있고, 우주론적 차원에서는 기의 가변적 속성에 따라 악에 직면한 「존재적 우주」의 실존상황이 설명가능하다. 이러한 「우주적 존재」와 「존재적 우주」의 연속성과 불연속성의 논술과정을 통해 리기의 이분법적 이원론과 환원적 일원론을 지양하는 율곡의 「리기지묘」의 통전적 사유가 논증된다. 나아가 제 1장에서 분석된 존재론적 차원과 우주론적 차원의 리기의 세 이론을 종합하여 율곡의 리기사상은「우주적 존재론(宇宙的存在論)」과「존재적 우주론(存在的宇宙論)」으로 이론화된다. 이러한 맥락에서, 율곡의 리기 사상은 우주만물의 존재근거와 존재구조를 밝혀주는 사상이고, 리기의 구체적인 실존과 실상의 표현인 성심-성경 사상의 기초이론이 된다고 할 수 있다. 본론의 제1부에서는 이와 같이 분석 및 종합된 율곡의 리기 사상을 그의 Trilogy 사상에 있어서의 거시사상(macro-idea)으로 명명(命名)한다. 제2부 이율곡의 성심사상연구 본론의 제2부는, 율곡의 Trilogy 사상에서의 성심(性心) 사상을 2장 6절에 걸쳐 연구한다. 제1장은, 리기 사상의 원리와 이론에 입각한 성심사상의 두 원리(「성심원불상리(性心元不相離)」「성심실불상잡(性心實不相雜)」)와 세 이론(「성심지묘(性心之妙)」「심발이성승(心發而性乘)」「성통이심국性通而心局」)을 존재론적 차원과 우주론적 차원에서 성심의 대립적 속성과 기능(성의 「무위무형」과 심의「유위유형」)에 따라 심층 분석한다. 먼저「성심지묘」의 분석에서는 성심의 실존구조인「성재심중(性在心中):성은 심에 실재한다」을 다루는데, 성심 사상의 「심발이성승」과「성통이심국」이론에서「이(而)」는 시공간적 선후가 아닌, 「리기지묘」에 입각한「성심지묘」의 논리를 따른다는 점에 주목한다. 「심발이성승」의 이론의 분석에서는 성심사상의 핵심 내용인 정(情)과 의(意)를 포함한「인심도심(人心道心)」을 고찰하고, 「지선(至善)」과「중(中)」및「본연지성(本然之性)」과「기질지성(氣質之性)」의 관계에 대해서는「성통이심국」의 이론에서 율곡과 당시 조선유학자들의 이해를 고찰하여, 조선성리학의 다양한 사상체계의 면목을 밝힌다. 이는 조선유학사를「주리」와「주기」또는 「관념」과「유물」이라는 이분법적 이원론의 도식에 따른 사상의 단순분류를 통해 성심 사상을 논증하는 기존의 연구 풍토에 대한 성찰과 율곡 사상의 재조명의 필요성을 환기시킨다. 제2장에서는, 제1장의 성심에 대한 심층 분석을 우주만물에 확대시켜 종합적으로 진술하며 율곡의 성심 사상이 갖는 현대적 의미를 모색한다.먼저 우주만물의 생성과 소멸의 과정을 「생생지리(生生之理)」와 「생생지기(生生之氣)」로 논할 때, 천지는 「생생지리」와 「생생지기」를 부여 받은 최초의 구체적인 사물이면서 만물의 부모로서, 만물생성에 있어서 기본적인 생태환경으로 해석한다. 또한 우주만물의 생성과정에 나타난「인물성동이(人物性同異)」는 우주만물의 본유적 동일성과 그 실존의 다양한 양태로 재해석한다. 특히 「수위修爲」의 능력을 가진 인간이 우주에서 차지하는 실존적 지위와 역할에 대해 논할 때, 사회-정치적 우환의식에 바탕을 둔 책임의식을 통해 천지와 더불어 영구하는 인간의 「사생의 도」를 역설한다. 그리고 리기 사상과의 연계 속에서 「존재적 우주」인 우주만물을 「우주적 존재」의 사회-우주적 사태로 해석하고, 우주만물의 영(심의 혼백)에 실재하는 리, 곧 성을 「사회-우주적 영성(社會‐宇宙的靈性)」으로 논술한 후, 성심사상의 세 이론을 통해 「사회-우주적 영성」의 세 가지 사상의식(「우리의식」「본유적가치」「창작과정」)을 제안한다. 이와 같은 의미에서, 율곡의 성심사상은 우주만물이 리기-성경의 실존상황(실재와 유행)을 상세한 정치(精緻)이론으로 논의된다. 본론의 제2부에서는 이러한 율곡의 성심사상을 그의 Trilogy 사상에 있어서의 미시사상(micro-idea)이라고 칭한다. 제3부 이율곡의 성경사상연구 본론의 제3부는, 율곡의 Trilogy 사상에서의 성경(誠敬) 사상을 2장 6절에 걸쳐 연구한다. 제1장에서는, 먼저 리기-성심 사상의 두 원리를 성경 사상에 대응시켜 율곡의 언술에 따라 성경의 두 원리인 「성경원불상리(誠敬元不相離)」와「성경실불상잡(誠敬實不相雜)」을 도출한다. 또한 성경의 두 원리가 관통하는 성경사상의 세 이론 (「성경지묘(誠敬之妙)」「경발이성승(敬發而誠乘)」「성통이경국(誠通而敬局)」)을 그 대립적 속성과 기능에 (성의 「무위무형」과 경의「유위유형」)따라 존재론적 차원과 우주론적 차원으로 분석함과 동시에,율곡의 Trilogy 사상을 「리-성-성(理‐性‐誠)」과「기-심-경(氣‐心‐敬)」이라는 범주로 설명한다. 이러한 설명과정에서, 성경 사상을『성학집요』에 근거하여 프락시스 사상(praxis-idea)으로 논술하는데, 프락시스 사상의 고유한 특성과 부합하도록 성과 경의 의미를「수기치인(修己治人)」의 목적과 방법으로 재해석하여 리기-성심의 총체적 실상으로 논술한다. 다만, 성과 경을 그 설명 범주의 특성에 따라 목적과 방법으로 구별하였으나, 그 범주는 리기-성심의 존재구조에 입각한「성재경중(誠在敬中):성은 경에 실재한다」의 통전적 유기체 관계를 전제로 하기 때문에, 방법에 목적이 내재한다는 점에 주목해야 한다. 이러한 점에서 선행연구의 이분법적 구도에 따라 「주성(主誠)」과「주경(主敬)」나누고 율곡의 성경 사상을 「주성(主誠)」적 수양론으로 정의하는 연구풍토는, 리기-성심 사상과 마찬가지로「지묘」적 관계론에 따라 재검토의 필요성을 논한다. 제2장에서는,「지의 미학(志の美學)」「지행의 변증법적 회통(知行の弁証法的會通)」「안민의 사림정치(安民の士林政治)」「실리-실심의 실학(實理‐實心の實學)」을 중심주제로 삼아 율곡의 성경학을 단지 수양론이 아니라, 사회-우주적차원의 실천을 포함한 「실리-실심의 실학」으로 논한다. 「지의 미학」에서는, 사회-우주적 차원에의 반성적 실천의 계기로서 지(志)를 논하고,「지행의 변증법적 회통」에서는 반성적 실천의 철학적 근거로서 율곡의「지행일시병진(知行一時並進)」을「유지이달어행지효(由知而達於行之效):지(知)로 인해 행(行)의 실효에 달하는 수기치인의 방법」과「유행이달어지지효(由行而達於知之效):행(行)으로 인해 지(知)의 실효에 달하는 수기치인의 방법」이라고 하는 두 측면으로 논의한다. 그리고「안민의 사림정치」를 논할 때는, 수기치인의 성경학에 입각한 사림정치를 통해 율곡이 주도한 조선중기의 실학적 혁신운동을 탐구하고,「실리-실심의 실학」에서는, 리기의 「우주론적 존재론」과「존재론적 우주론」 및 성심의「사회-우주적 영성」을 종합하여「실리-실심의 실학」의 3대 실천강령(「지속가능성(sustainability)」「필요에 기초한 정치경제(need based political economy)」「지식인의 연대(solidarity)와 사회참여(social participation)」을 제안한다. 이러한 이유에서, 본 논문의 제3부에서는 율곡의 성경사상을 「실리-실심의 실학」으로 규정하고, 그의 Trilogy 사상에 있어서 프락시스 사상(praxis-idea)이라고 자리매김 시킨다. 결론 결론에서는, 본론의 분석과 종합 과정에 대한 요약 및 재검토, 연구가설의 타당성, 본 연구의 의의와 한계를 논술한다. 또한 율곡의 유학 사상과 서양의 근대 철학에 대한 비판적 성찰을 통한 유기체 철학을 추구하는 A.N.화이트헤드(Alfred North Whitehead)의 사상과의 비교연구(개념중심이 아닌 사상구조와 체계를 중심으로 한 비교 연구)를 전망한다. 특히, 연구과정의 재검토를 통해, 리기 사상은 성심-성경의 존재근거를 규명한 사상이고, 성심 사상은 리기-성경의 우주적 실존을 설명한 사상이며, 성경 사상은 리기-성심의 총체적 실상을 밝힌 사상임을 명백히 한다. 말하자면, 「율곡의 Trilogy 사상은 이분법적 이원론의 체계나 환원론적 일원론의 체계가 아닌, 상호 소통 가능한 지묘(之妙)적 사유에 기초한 통전적인 유기체 사상을 갖추고 있다」고 하는 본 논문의 연구가설의 타당성이 논증된다.본 연구는 크게 두 가지 의의를 가지고 있다. 하나는 존재론적 차원과 우주론적 차원이라는 심층 분석의 방법에 의거하여 율곡의 Trilogy 사상을 체계적으로 이해했다는 점에 있다. 율곡은 본연의 리기-성심-성경의 차원과 그 본연의 유행 또는 분수 차원을 논리적 일관성과 체계적 정합성을 가지고 그의 Trilogy 사상을 전개하기 때문에, 본 연구에서 사용한 존재론적 차원과 우주론적 차원의 분석 방법은 그의 사상을 체계적으로 이해하는데 적합하였다. 무엇보다 두 차원의 분석방법은 율곡의 리기-성심-성경사상을 통전적 유기체 구조로 파악하기에 적합한 방법이었을 뿐만 아니라, 이분법적 이원론에 입각한,「주리」와「주기」또는 「관념」과「유물」의 도식에 의한 조선유학사상의 단순화를 넘어 당시 조선 유학자들의 다양한 사상적 체계를 고찰하는데 유용한 연구도구였다. 또 하나의 의의는 본 논문이 가진 독창적인 측면에 있다. 본 연구는 리기-성심 사상에 비해 연구가 미진한 율곡의 성경 사상을 Trilogy 사상으로 자리매김시켜, 그 Trilogy 사상의 기초가 되는 지묘(之妙)의 통전적인 유기체적 사유를 사회-생태적 관점을 통해 재해석하여 그 의미를 추구하였다. 제1부에서의「우주적 존재론」과 「존재적 우주론」은 존재론과 우주론의 이분법적 이원론을 지양하고 율곡의 「리기지묘」의 통전적 성격을 드러냈다. 또한, 제2부에서의「사회-우주적 영성」과 그 3대 사상의식은 율곡의 성심 및 심신의 유기체적 관계론에 입각한 재해석이고, 제3부에서의「실리-실심의 실학」과 이에 따른 3대 실천강령은 근대 지향적 실용주의와 다른 율곡의「지행병진」의 성경사상의 진수를 밝혀낸 것이라고 할 수 있다. 그러나 이러한 본 연구가 갖는 의의는 다른 각도에서 보면 한계가 될 수 있다. 소위 존재론적 차원과 우주론적 차원이라는 분석 방법은 서양철학의 용어이고, 사회-생태적 관점에 의거한 현대적 의미추구의 재해석 과정은 해석학적 상상력을 통한 현시대에 대한 비판적 성찰이기 때문이다. 그러나 본 논문은 선행연구에서 본 바와 같이 배타적 실체개념에 입각한 「이분법적 이원론」과 같은 서양철학의 개념이 한국사상의 연구에서도 일반화 되어버린 지적 풍토에 대한 문제의식으로부터 출발한다. 이러한 자각에서 오히려 서양의 존재론적 차원과 우주론적 차원의 분석 방법을 통해 기존의 연구를 비판적으로 성찰하여 율곡의 통전적인 유기체적 사유를 체계적으로 이해하려고 한 것이다. 또한 고전을 읽고 재해석하고 그 의미를 추구하는 과정은 텍스트를 읽는 독자의 해석학적 상상력이 개입될 수밖에 없기 때문에 그 의미의 다양성이 생성한다. 이러한 방식으로 고전은 현대에 살아있고, 사상은 전진한다. 그런데 독자의 해석학적 상상력은 고전이 쓰인 사회-문화적 상황에서 뿐만 아니라, 독자의 처한 시대적 상황을 피해할 수 없다. 예를 들면, 선행연구의 타카하시토오루의 조선유학사연구는 일본에 의한 한국의 식민지정책이 투영되어 있고, 북한의 조선철학사연구는 북조선의 사회주의 건설시기를 반영하고 있으면, 황의동의 연구는 한국의 냉전시대에 겪고 있는 가치의 대립에 영향을 받고 있다. 더욱이, 율곡도 조선중기의 시대상황(중쇄기)을 반영해서 500년간의 사회-문화적 거리가 있는 주자학의 텍스트를 읽고 해석했다. 본 논문 또한 인간중심적 사고와 생태환경 중심적 사고를 비판적으로 성찰한 필자의 사회-생태적 의식이 투영되어 있다. 무엇보다 연구의 해석학적 상상력은, 율곡의 텍스트에 근거하지 않는 상상력이 아닐 뿐만 아니라, 율곡의 텍스트를 자의적 해석를 합리화하기 위한 수단이 아니라는 점에 있다. 오히려 본 연구에서 해석학적 상상력에 의한 현대적 의미의 추구는, 먼저 율곡의 텍스트에 나타난 그의 Trilogy 사상을 존재론적 차원과 우주론적 차원의 관점이라는 심층적 분석방법을 통해 그의 사상을 체계적으로 익혀, 이에 기초하여 사회-생태적 위기에 처한 우리시대를 새롭게 전망하고자 한 시도이다.