光源氏が愛した女性達は秋の八月中旬前後に死を迎え、光源氏のその女性達の死を悲しむ心は秋の景物によって表現される。夕顔と六条御息所の死には‘露’と‘霧’が、葵上と紫上の死には‘露’が光源氏の悲しみとはかなさの深さを象徵するかのように表現される。‘霧’の意味する隠された特異性と‘露’の意味する涙とはかなさが光源氏と女性達との關係ないし悲しみの深さを推測させるのである。光源氏の愛した女性達の死が秋をその背景にする理由がそこにある。葵上の死に継ぐ六条御息所との別離が夕顔の死より先に書かれたことになる源氏物語の執筆順序に従えば、葵上から六条御息所、夕顔、そして紫上の死に連なるによって、秋が深まるように‘露’の持つ意味も深まり、悲しく、がっかりし、あきれて、泣き、涙を流し、ついには気抜けしてしまう光源氏の悲しみとはかなさもまた深まっていく。秋-露-悲しみ-はかなさ-涙が一つの意味體として互いに繋がり光源氏の痛みを表す文學的裝置として働いているわけである。しかし‘露’のようにはかなく消え行く消滅の秋は、そのはかない衰落の中でも次回を約束するかのように結實をもまた残す。光源氏とその女性達の愛と生が終焉を告げる秋には、玉鬘、夕霧、秋好中宮、明石中宮という子供達が愛の結實として残され‘秋’のもう一つの意味を浮彫りにするのである。愛する女性達の死を秋に配置することで、源氏物語は、秋の悲しくはかない‘消滅’と同時に豊かな‘結實’の二つの複合的なイメージで愛の意味それ自體を示唆する。源氏物語の秋は愛する女性たちの度重なる死によって、深まる愛の意味を感じさせる主題展開のための、最適の裝置として設定された季節であったということができよう。