本稿では、西宮神社の十日戎という参詣行事が近代にどのような過程を経て旧暦から新暦へと移行したのかについて検討した。
これまで改暦については1872年の改暦、その後の政府による新暦の奨励·強制および旧暦の抑圧という点に注目が集まってきた。しかし実際には、西宮神社では改暦後も旧暦による十日戎が行われ続け、都市部からの参詣客も多数訪れた。しかも、政府から規制が行なわれた形跡は一切見られず、それどころか、政府の一組織であるはずの国鉄が積極的に旧暦十日戎を後押しして増収を図った。明治末期になると新たに開業した阪神電車が国鉄と熾烈なサービス競争を繰り広げるようになり、結果として旧暦十日戎は神社関係者が「古来これほどの大盛況はなかったにちがいない」と驚嘆するほどの賑わいとなった。
一方で、1872年の改暦後の新暦の十日戎は、都市部からわずかな参拝客が訪れるのみという地味な状況が続き、国鉄もこれを盛んにしようという努力はしなかった。ところが、阪神電車が新暦十日戎を「開拓」して大々的な集客を行ったとたんに大いに賑わうようになった。結局、新暦十日戎と旧暦十日戎の両方で阪神電車と国鉄が激しくサービス競争を繰り広げたために、数年の間は「2つの十日戎」(新暦+旧暦)がともに賑わうことになった。
この状況に終止符をうつ転換点となったのが、1910年に実施されたもう一つの「旧暦廃止」であった。「今度こそ本当の旧暦廃止」という印象を当時の人々に与えたこの重要な改正によって、旧暦十日戎から都市部の参詣客が離れ、西宮神社十日戎における新暦の優位が決定的となった。
以上みてきたように、近代の西宮神社における新暦と旧暦の相克は、1872年の(1度目の)改暦によってただちに新暦が定着したという単純で一直線的な過程ではなかった。私鉄(阪神電車)と国鉄の熾烈な集客競争による新暦十日戎と旧暦十日戎の双方の活性化、そして1910年のもう一つの「旧暦廃止」による旧暦十日戎の衰退という転換点を経て、今日の姿に落ち着いていったのである。