本研究では、17世紀に鬱陵島を渡航していた大谷、村川両家が当地で確認した情報が後世に伝わってから、19世紀半ばにそれらの記録が編纂されてできた「竹島雑誌」を考察したものである。これにより、当時の日本人の鬱陵島と独島に関する認識を検討しようとしたものである。まず、「竹島雑誌」では、該当の島々で日本にはない多くの産物が生産されたため、日本の領土として拡張すると、国益に資させんとする目的の達成を促したという点が挙げられる。第二に、竹島は距離的には、日本よりも朝鮮に近いが、日本人が幕府から渡海免許の発行を受け70年以上渡海してたため、事実上はむしろ朝鮮の領土というより、ほぼ日本の領土に近かったということが明らかである。ところが、江戸幕府は、領土意識の不徹底さ故か、竹島を朝鮮の領土であると認めてしまった。鬱陵島に往来していた大谷、村川両家は幕府の決定を不服とし、直接江戸に行って鬱陵島に渡航できるように嘆願した。第三に、独島に関する内容はほとんどない。それにもかかわらず、現在の日本政府が独島領有権に関し言及してくるのは、鬱陵島への渡航過程で独島を経由したが故である。従って島を経由したことをもって、それが領土として確保されたとする主張には無理がある。