本稿は「冬と手紙と」(初出「中央公論」1927年7月)をもとに、芥川晩年の表現技法や修辞的問題について考察したものである。その概要をいうと、「冬」は「「淡々と物語る僕」を淡々と物語る僕」を淡々と物語る僕」といった具合の三重構造を取っているが、どの時間軸の「僕」を切り取っても、まるで金太郎飴のように、同じような「僕」しか出来てこないという自閉化した構造になっている。また、それによってドラマ性の欠乏した物語になっている。
一方、「冬」と並列されている「手紙」は、「僕」のモノローグ的語りによって、出来事は断片的に伝えられるのみであり、これもドラマ性が抑制されている。ただ、そのかわりエピソードの組み換えなどによって、「僕」の心境のほうが前景化されるという構造になっている。
このような分析を踏まえていえば、「冬」にも「手紙」にも共通していえるのは、①出来事をドラマ化させない創作手法、②心境を前景化させるような修辞的技法という事であろう。この事は、芥川晩年の「話らしい話のない小説」などの問題とも交差してくる。