「公園の詩人」は、主人公の教え子の愛子が主人公の説教を「ほんとうに」「絶対的に」受け入れてしまい、ある老人と愛し、その後「ほんとうに」死にたいという感情に取り付かれ、結局老人を死に至らせてしまった悲劇を推理小説の形式で描いている。ところで、この作品には展開の不自然で、気味の悪い謎たちが多くあり、それらを解くためにドストエフスキー「大審問官」物語からの着想であるキリストの「接吻」を手がかりにして、作者の独特な「復活」理解を踏まえ、謎めいていたところの解消を試みる一方、この作品での作者の真の主張を読み取ろうとした。
さて、この作品で作家は「二人」の女や、「二匹」の犬などを登場させているが、これはカフカからの影響である。しかし、カフカは、「二人」の対立の様子を記し、自分のなかの「ジレンマ」を表しているのに対して、椎名の「二人」は、カフカのように心の中の葛藤を表したのではなく、むしろその葛藤が解消される境地を描こうとしたのであった。つまり、カフカから借りた「二人」の手法をイエス・キリストの「復活」の福音を伝える手段として使ったのである。その福音、即ち椎名の理解している「復活」のビジョンがこの作品の真の主張であるのだが、その椎名特有の独特な理解は、キリスト教の救いとして一般的に知られる天国への思し召しや永遠なる生などを意味するものではない。それは、この世の不幸やそこから生じる絶望的な気分などを「絶対的」に受け止めるべきではない、あのイエス・キリストにより「ほんとう」だと信じ込んでいたあるゆる「絶対的な」ものはあの「死」さえ消し去り、今や「二重性」としての「ほんとうの自由」がキリストによりわれわれに啓示されているのだということである。