古代日本の官人社会において、官位は個人に与えられ、原則的には世襲されることはなかったが、こうした官位の秩序は平安時代に入って変化する。公卿への昇進ルートを確保した少数の家々から公卿が輩出し、その昇進コースを軸として家格が設定されるようになった。家格は貴族社会が再編される様相を解明する重要な手がかりであり、その形成時期は、古代から中世への転換期としての意味を持つ。本稿は、家格の形成時期をめぐるこれまでの議論を検討し、家格形成の初期に登場した公達(君達)と諸大夫の家格に注目して、その史料上の用例を分析した。 摂関家・清華家・羽林家・名家などの代表的な貴族の家格に先行して、公達・諸大夫・侍という家格の区分が存在し、なかでも公達と諸大夫は10世紀末~11世紀頃には明らかに家格に関わる形態として史料上に登場したという指摘があった。公達は10世紀後半から史料に見られ、本来の意味は大臣・公卿などの上流貴族の子弟であったが、代々高位高官に就く家柄を表す概念へと転換したという。 ところが、公達に類似した概念である貴種の場合、11世紀中葉になってようやく家格への転換を遂げた。また、「公達」の語が登場する史料を検討した結果、11世紀前半までは、まだ特定の貴族層や家格を指すような表現として使われていないことが確認された。11世紀中葉から地下公達、すなわち殿上人ではない公達という概念が出現し、代々公卿進出が続き、子孫も公卿に列することが期待される家系の出身でも、公卿進出が難しくなった人々に対する名称として使用された。こうした家々を対象として公達の家格が形成された。 一方、諸大夫の場合、史料では家格に関わる用例があまり見つからなかったが、その代わりに、12世紀頃からは四位・五位に達する上層諸大夫の家柄が「良家」と呼ばれるような事例が確認された。 したがって、平安時代における家格の形成時期は11世紀中葉になり、この時に大臣・公卿の家柄としての貴種、そしてその中から公卿への進出が難しくなった公達の家格が登場した。さらに、12世紀には良家も加わり、貴種─公達─良家という家格区分が現れたのである。