『朝鮮情詩』には朝鮮の風景と朝鮮人の日常生活を撮影した写真が載っている。しかし、葉書の内部の構造を見ると、写真以外は全てが日本語から成っている。表記には意図が込められる。即ち、日本語の表記には日本人の意図が込められる。日本の企業が日本人に販売する目的で企画した葉書は、当然のように日本側の意図が込められ、被写体である朝鮮は他者化されるしかなかったのである。
写真は有りのままの現実を見せていると信じてしまいがちであるが、絵葉書は企画者の意図によって編集される余地を隠している。意図的に編集された絵葉書の内部構造は、読者の解析に多大な影響を与え、歪んだ朝鮮像を表象する暴力的な文学テキストとして機能していたのである。
つまり、絵葉書に表出された朝鮮は選択の余地もなく日本の視線に晒され、被動的に他者化され、表象された虚像の朝鮮に過ぎない。しかし、面白いことに、焼き付けた写真は被写体はもちろん、観察者の意図までも写している。『朝鮮情詩』は植民地朝鮮に向かった日本と日本人の欲望が露に表出された歴史的な現場であったのである。